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51年間経営して、
最後に事業承継が
目の前に現れました。
27歳で創業し、製麺機という小さな市場から始めました。
2025年4月、長男に会社を託しました。渡してみて、初めて分かったことがあります。
第1章
なぜ、私は
事業承継に取り組むのか。
私は51年間、会社経営を続けてきました。27歳で大和製作所を創業し、製麺機という小さな市場から事業を始めました。
もちろん、最初から順調だったわけではありません。むしろ振り返れば、成功したこと以上に、数え切れないほどの失敗をしてきたように思います。商品開発、営業、人材育成、海外展開、組織づくり。会社が大きくなるたびに、新しい問題が起きました。
そして、そのたびに私は、「もっと良い商品を作ればいい」「もっと売上を上げればいい」「もっと社員を教育すればいい」と考えてきました。
ところが、51年間経営を続けて、最後に私の前に現れた大きなテーマが、事業承継でした。
会社を渡すだけでは、承継にならなかった
私は2025年4月、長男に大和製作所の経営を託しました。実際に自分自身が承継を経験してみて、初めて分かったことがあります。事業承継は、社長の椅子を渡せば終わるものではありません。
株式や財産をどうするか。誰を社長にするか。税金をどうするか。もちろん、それらは非常に重要です。しかし、それだけでは解決できない問題が残ります。
先代は、本当に手放せるのか。後継者は、先代のコピーではなく、自分自身の経営ができるのか。家族は、それぞれの立場や思いを理解できているのか。そして何より、「この会社は、何のために次の世代へ残すのか」という問いです。
私は、自分自身の承継を経験する中で、事業承継の難しさの中心には、制度やお金だけでは解決できない「人」の問題があることを強く感じるようになりました。
社員の問題だと思っていた。ところが、私自身にも原因があった
さらに自分の51年間を振り返る中で、もう一つ大きな発見がありました。会社で問題が起きると、私は長い間、その原因を外側に探していました。
社員が分かってくれない。なぜ言った通りにやらないのか。なぜもっと本気にならないのか。
ところが、自分自身を深く振り返っていくと、会社で起きていた問題の多くに、経営者である私自身の考え方や反応の癖も関係していたことに気づきました。
例えば、私は非常に責任感が強い一方で、思い通りにならないと激しく怒ることがありました。家族に対しても、「子どもは親の思う通りにするものだ」というような、自分でも気づいていなかった考え方を持っていました。
私は、こうした本人がなかなか気づけない内面の傾向を、木の「根っ子」にたとえるようになりました。そこから「根っ子学」の探究が始まりました。
事業承継で、本当に承継したいものは何なのか
私が今、事業承継に取り組んでいる理由は、単に会社を次世代へ残すためではありません。私が考えるファミリービジネスの目的は、事業を通じて、子孫の永い繁栄を願うことです。
財産を残すだけなら、相続です。会社を残すだけなら、事業承継です。しかし、その会社を生んだ志や価値観まで次の世代につなぎ、後継者がそれを土台にして、自分自身の新しい枝を伸ばしていく。そこまでできて初めて、ファミリービジネスの承継になるのではないか。私はそう考えるようになりました。
だから私は、先代と後継者を同じ形にしようとは考えていません。根っ子を受け継ぐことと、枝を同じ形にすることは違うからです。時代が変われば、事業も変わっていい。商品も、組織も、経営のやり方も変わっていい。
しかし、「なぜ、この会社が存在するのか」「何を大切にしてきたのか」「次の世代に何を託したいのか」。そこは、一度立ち止まって考える価値があります。
51年間の経営経験を、次の経営者のために
私はもう、自分の会社を大きくするためだけに働いているわけではありません。51年間の経営で経験してきた成功も、失敗も、そして自分自身の事業承継で経験していることも、これから承継を迎える経営者や家族のために役立てたい。
そのために、事業、財産、制度だけを見るのではなく、先代を見る。後継者を見る。家族を見る。そして、その人たちの「根っ子」を見る。そこから始める事業承継に取り組んでいます。
会社を継ぐ前に、「何を継ぐのか」を考える。そして先代は次の使命へ進み、後継者は自分自身の使命を生き始める。それが、私がこれから取り組みたい事業承継です。
第2章
51年間の経営の中で、
何を経験してきたのか。
私の経営人生は、順風満帆な51年間ではありませんでした。むしろ、失敗して、考えて、やり直す。その繰り返しの51年間でした。
私の社会人としての原点は、川崎重工です。若い頃、技術者としてファントム戦闘機のライセンス導入、その後は20万トンオイルタンカーの設計に携わりました。
そこで叩き込まれたのが、数字で確認する。図面に落とす。複雑なものを、誰にでも分かるようにする。そして、再現できる仕組みにする。という技術者としての考え方でした。
27歳。何もないところから経営が始まった
27歳で川崎重工を辞め、独立しました。その時、長男はまだ生後4か月。退職金は9万円でした。
独立して3か月、仕事は一本も来ませんでした。妻から「お米が……」と言われ、公園のベンチで「俺は何をしているんだ」と泣いたことを、今でも覚えています。
そこから私は、「何としてでも家族を守らなければならない」と、猛烈に働き始めました。製麺機を開発し、作り、売り、市場を開拓しました。
良い製品を作るだけでは売れないことを知り、早くからデジタルマーケティングに取り組みました。それまで見えなかったお客さまの動きを数字で捉えることで、香川県にいながら国内市場を広くカバーし、さらに海外へも事業を広げていきました。
さらに、料理人の「勘」まで数字に置き換えようと考えました。重量、水分量、温度、時間、スープ濃度、塩分濃度。経験と感覚に頼っていた料理の世界を、誰でも再現しやすい形にする。そこから生まれたのが「Digital Cooking」でした。
成功する一方で、私は何度も人とぶつかった
事業は成長しました。しかし私は、経営者としてたくさんの失敗もしました。
自分の製麺機への自信が強すぎて、値引きを求めるお客さまに、「それならライバルメーカーから買ってください」と言ってしまい、本当に競合の機械を買われたこともあります。機械を売りに行ったのに、喧嘩を売って帰ってきました(笑)。
お客さまのために「365日メンテナンス」を始めようとした時には、社員全員から反対されました。私は「お客さまのためだから正しい」と信じていました。しかし、その正しさを実現するために働く社員には、社員自身の生活があり、家族がありました。
正しい目的だからといって、人が当然ついてきてくれるわけではない。これも大きな学びでした。
「家族のため」に働き、家族との時間を失った
もっと大きな失敗は、家庭にありました。36歳頃には、毎週月曜日に東京へ飛び、金曜日まで仕事。週末に香川へ戻れば、また工場で仕事。睡眠は4〜5時間。ほぼ年中無休でした。
私は本気で、「家族のために働いている」と思っていました。ところが、家族のために働きすぎて、家族と一緒にいる時間がなくなってしまったのです。子どもたちが小さい頃には、ほとんど構ってやれませんでした。
その申し訳なさもあって、成長した長男には最高の教育環境を与えてやりたいと思いました。しかし、そこでも私は、「息子のためにしてやりたい」から、「息子の人生まで自分が決めてやりたい」へ踏み込みかけていました。
後になって、この問題はそのまま事業承継にもつながりました。「会社を息子に任せる」と言いながら、「ただし、私のやり方でやれ」では、本当に任せたことにはならないからです。
51年間で、一番見えていなかったのは「自分」だった
私は長い間、経営の問題が起きると外側を見ていました。社員が分かってくれない。お客さまが分かってくれない。子どもが言うことを聞かない。後継者が自分の思ったように動かない。
ところが、2025年に大和製作所を長男へ承継して社長を退き、自分の人生を振り返った時、初めて見えてきたものがありました。私自身です。
思いどおりにならなければ癇癪玉を破裂させる。会社や家族のためと思いながら、周囲を自分の思いどおりに動かそうとする。自分が犠牲になってでも背負う。人に任せられず、自分でやってしまう。そして「子どもは親の持ち物」という、自分でも気づいていなかった思い込みまでありました。
だから私は、「人」に行き着いた
51年間を振り返ると、経営の問題は、戦略や商品、数字だけではありませんでした。その戦略を決めるのも人。社員に任せるのも人。後継者に会社を託すのも人。家族と向き合うのも人です。
そして、その人の判断や行動の奥には、本人にも気づきにくい信念、価値観、恐れ、思い込みがあります。私は、それを「根っ子」と呼ぶようになりました。過去の体験から信念や価値観、感情、判断、行動、そして会社や家族に現れる結果までをつないで捉えています。
だから今、私が事業承継で最も大切にしたいのは、会社を「渡す技術」だけではありません。先代は、なぜ手放せないのか。後継者は、本当はどんな人生を生きたいのか。親子は、お互いを一人の人間として理解できているのか。そして、この会社の何を次の世代へ残したいのか。
51年間経営して、最後に私が行き着いたのは、事業承継は、会社を継ぐ問題である前に、「人」を理解する問題でもあるということでした。
第3章
私自身の事業承継で、
初めて分かったこと。
私は、子どもたちに「会社を継げ」と一度も言いませんでした。むしろ、もともとは3人の子どもたちを会社に入れるつもりさえありませんでした。
その背景には、創業期に弟と仕事で何度も衝突し、母を悲しませ、最後には弟が会社を去った経験がありました。妻とも仕事では何度も意見がぶつかりました。その経験から、いつの間にか私の中に、「家族と一緒に仕事をするのは難しい」という考えができていたのだと思います。
つまり私は、まだ何も起きていない子どもたちの未来を、過去の経験から判断していたのです。
ところが人生は面白いものです。3人の子どもたちは、それぞれ自分の意思で家業に関わるようになりました。そして2年半前、長男の方から私のところへ来て、「会社を継がせて欲しい」と言ったのです。私は一度も「お前が継げ」と言っていませんでした。
それは、本人の中から生まれるしかないのではないか。ここで私は、事業承継について大切なことを考えるようになりました。
ところが、私は「継ぎたい」と言った息子にも厳しかった
私は長い間、子どもたちに、「経営者の子どもなら、社員より長く働くのは当たり前だ」と言い続けていました。社員より会社のことを考えろ。社員以上に頑張れ。もっと責任感を持て。会議でも、一般社員より子どもたちに厳しく接しました。私の中では、「身内に厳しくすること=公平な経営」だったのです。
しかし、何度言っても、私が期待するようには変わりませんでした。
ところが――。長男に社長を譲ると、見違えるように変わりました。土曜日も、自分から会社へ出るようになったのです。私が「出ろ」と言ったわけではありません。自分から行くのです。
そこで、私は初めて気づきました。私は息子に「経営者と同じくらい責任感を持て」と言いながら、最後の責任は全部、自分が握っていたのです。
売上が落ちても最後は私。資金繰りに問題が起きても最後は私。大きな判断を間違えても最後は私。社員の生活を背負うのも最後は私。それなのに、「もっと経営者らしく考えろ」と言っていた。今になって考えると、無理な注文だったのかもしれません。
「仕事を渡す」と「責任まで渡す」は違う
仕事を任せる。役職を与える。取締役にする。「後継者」と呼ぶ。しかし、最終判断も最終責任も親父が握っていれば、その人はいつまでも、「次の経営者候補」なのかもしれません。
長男が社長になった時、初めて「候補」から「当事者」になりました。51年間経営した私が、会社を譲ってから息子に教えられたことです。
後継者を変える前に、先代自身が何を握っているのかを見る必要がある。これは、私自身の事業承継から得た大きな学びでした。
そして、会社を譲ってから家族会議を始めた(笑)
私は会社を長男へ譲ってから、経営には口を出さないようにしています。その代わりに始めたのが、「家族根っ子会議」です。
最初に家族全員の根っ子診断を行い、それぞれが何を大切にし、何を恐れ、何に傷つき、どんな強みを持っているのかを知りました。この会議では、経営の話をしません。相手を否定しない。正しい、間違っているを決めない。相手を変えようとしない。目的は、「お互いの心を温め合うこと」です。
51年間、会社では数え切れないほど会議をしてきました。経営会議。営業会議。開発会議。ところが、一番身近な家族とは、「お互いの心を知るための会議」を一度もしていませんでした。
承継してから、子どもたちが私に気を使い、本当は伝えるべきことまで伝えていなかったことも知りました。
株式、相続税、社長交代、銀行対策。もちろん、どれも重要です。しかし、そのもっと手前に、「この家族は、お互いをどこまで知っているのか」という問題があります。
第4章
そして、なぜ「人」や
「根っ子」に行き着いたのか。
私は51年間、経営者として、会社で起きる問題を解決し続けてきました。売上が伸びなければ、営業やマーケティングを考える。良い商品ができなければ、技術を磨く。品質が安定しなければ、製造工程を改善する。組織がうまく動かなければ、仕組みを変える。
私はもともと技術者ですから、問題が起きれば、「原因は何か」「どうすれば見えるようになるか」「どうすれば再現できる仕組みにできるか」と考える癖がありました。川崎重工では、ファントム戦闘機や20万トンタンカーに携わり、数字、設計、検証、再現性という技術者としての考え方を身につけました。
独立してからは、その考え方を経営にも持ち込みました。最初に取り組んだのが、デジタルマーケティングです。それまで見えなかったお客さまの動きを数字で見えるようにしました。次に取り組んだのが、Digital Cooking です。料理人の「勘」に頼っていた重量、水分量、温度、時間、スープ濃度、塩分濃度などを測定し、できるだけ再現しやすい形にしていきました。
つまり私は、長い間ずっと、「見えないものを、見えるようにする」仕事をしてきたのです。
ところが、一番見えていなかったのは「自分」だった
2025年、私は長年経営してきた大和製作所を長男へ承継し、社長を退きました。会社から少し距離を置き、自分の人生を振り返った時、初めて見えてきたものがありました。それは市場でも、製麺機でも、料理でもありませんでした。私自身です。
ファントム戦闘機の問題は分析できる。20万トンタンカーも設計できる。製麺機の異常も分かる。お客さまの行動も数字で見える。料理人の勘まで数値化しようとしてきた。
それなのに、自分がなぜ怒るのか。なぜ人に任せられないのか。なぜ家族や社員を自分の思いどおりにしようとするのか。それだけは、長い間まったく見えていなかったのです。
問題は、社員や後継者だけにあったのではなかった
私は長い間、「なぜ社員は分かってくれないのか」「なぜ子どもは言うことを聞かないのか」「なぜ後継者はもっと責任感を持たないのか」と、問題の原因を自分の外側に探していました。
しかし、人生を振り返っていくと、会社や家族で繰り返されてきた問題の中には、経営者である私自身の考え方や反応の癖とつながっているものもあることに気づきました。
事業承継でも同じでした。私は息子に「もっと責任感を持て」と何度も言いました。しかし、長男が社長になる前、本当の最終責任を握っていたのは私でした。長男が社長になり、私がその責任を本当に渡すと、私が何度言っても変わらなかった長男の会社への向き合い方が、自発的なものへ変わりました。
ここで私は、「後継者をどう変えるか」だけを考えていてはいけない。先代自身も見なければいけない、と考えるようになりました。
行動の下には、目には見えないものがある
では、人はなぜ同じ反応を繰り返すのか。私は自分自身を材料にして、さらに掘っていきました。過去に何があったのか。それをどう受け止めたのか。そこから、どんな信念や価値観、恐れ、思い込みが生まれたのか。そして、それが現在の感情、判断、行動にどうつながっているのか。
私は、その本人自身にも見えにくい内面の傾向を、木の「根っ子」にたとえるようになりました。
表に見えているのは、言葉、行動、判断、そして結果。しかし、その下には、その人が生きてきた人生や経験から形成された、信念、価値観、恐れ、思い込みなどがある。私は、そのつながりを見ていこうと考えました。これが、私の「根っ子学」の出発点です。
事業承継は、最後は「人」に行き着く
事業承継には、株式、相続税、資金、組織、銀行、法務など、解決しなければならない重要な問題がたくさんあります。しかし、そのすべてを決めるのは、最後は人です。
先代が手放せない。後継者が本音を言えない。親が子どもの将来を決めようとする。子どもは親に反発する。兄弟で考え方が違う。家族だからこそ言えないことがある。
私自身、会社を譲ってから、子どもたちが私に気を使い、本来伝えるべきことまで伝えていなかったことを知りました。
だから私は今、事業承継を見る時に、会社だけを見ません。先代を見る。後継者を見る。家族を見る。そして、その人たちの「根っ子」を見る。
後継者だけを変えようとしない。先代だけを責めない。誰が正しい、誰が間違っているとも決めつけない。それぞれが何を大切にし、何を守ろうとし、なぜそのように考え、行動しているのか。そこから事業承継を考えていきたいのです。
51年かかって、ようやく「人」にたどり着いた
振り返れば、私の仕事はずっと「見える化」でした。お客さまの動きを見えるようにした。料理人の勘を見えるようにした。そして最後に、人間の内面を理解できる形にすることに挑戦し始めた。
その中で一番難しかったのが、人でした。そして、一番最初に見る必要があった人は、ほかでもない、私自身でした。
51年間の経営と、自分自身の事業承継を経験して、私はようやくそこにたどり着きました。だから今、私は「会社をどう継ぐか」だけではなく、「人がどう次の世代へつながっていくのか」というところから、事業承継に取り組んでいます。
藤井 薫(株式会社 大和製作所 創業者/「根っ子学」提唱者)
同じ道を通った側から、
お話をうかがいます。
何から話せばよいか分からない、という段階でも構いません。秘密は守ります。